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続神社由緒

神社の創建は、平安時代の前期貞観年中に京都・祗園の八坂神社から御祭神『素戔嗚尊(すさのをのみこと)』を、病厄難・海上安全の守護神、振武文教の祖神として勧請鎮め祀ったのが初めで、創始以来千百有余年の悠久の歴史を刻んでいる。

天慶年中には、将門の乱で、平貞盛と倶に将門追討を命ぜられた藤原秀郷がその戦捷祈願に弓矢を奉納し厚く崇敬したともいわれる。

鎌倉時代には小田氏の領地におかれ、小田家歴代の崇敬篤く、建武の兵乱に藤原藤房が小田に居住の際には玉取の里「花圃」と称える小田家の遊覧所に度々来遊し八坂大神の霊験あらたかなるを慕い崇敬せられたとのことだ。

御社殿は、永禄より天正のはじめそれまで崇敬篤かった小田氏が佐竹氏に攻められ敗れたとき兵火にかかり当時の社殿は焔上消失した。

文禄年間郷民が挙ってこれを再建したと言われ、江戸時代にも代々の領主の保護が厚く本殿や拝殿を再建造営するなどされて現在に至っている。

覆屋のなかの本殿は、一間社流造りで、縁下の部分と縁上の部分とが別個に造られている貴重で特異な構造となっている。

彫刻を多用し、柱や壁面に地紋彫を施した和風木構造の代表というべき要素を持った装飾的な神社建築物である。

多くの御神宝の中に、瑞花雙鳥八稜鏡がある。

白銅製で圏線をもって内外の両区を分け、内区に花文座紐を中心に旋転する瑞花と鳥を交互に配している。外区は一連の唐草文と羽を広げた胡蝶を布置している。

小田氏寄進と伝える南北朝時代の力強い鏡である。

ニンニク祭 ニンニク守りで疫病除け

牛頭天王は除疫神として信仰されたから、その祭りは疫病の流行する夏に行われる祗園祭で、「一ノ矢八坂神社」の祗園例大祭は毎年旧暦六月七日に行われる。
八坂祗園祭は五穀豊穣、無病息災の祈願祭である。
神社に伝わる古文書には、文安二年の年号入りで御神輿渡御の際の長刀持ちや鉾持ちなどの役割分担が記されており、祭りに少なくとも五百年以上の歴史があることが分かる。
「新編常陸国誌」には「筑波郡一矢村ノ天王ハ、六月七日ヲ以テ祀ル、辺地ナレドモ霊威赫如(かくじょ)タリトテ、其名四隣ニ聞エ、緇素(しそ=僧と俗と)多ク参詣ス」とあり、下妻市の旧家に残る万延元年(一八六〇年)の「年中家行事」には、「六月七日一ノ矢天王祭。朝飯後遊ぶ。朝早麦まんぢふこしらう。晩にうんどん。天王初穂、百文にて札迎ひ」と記され、江戸時代に広く信仰されていたことが分かる。
現在神社から相当離れた地方などでも六月七日は一ノ矢の天王様の日といつてうどんを作って神棚に供え、仕事休みにしている所があるという。
一ノ矢の天王は茨城県における天王信仰の中心で、一ノ矢の天王様の祭りが済まないうちは、自分達の祇園祭りは行わない。」とか「県内の祗園祭りは、一ノ矢の天王様に始まる。」とか言われてきた。
一ノ矢天王が、県内天王信仰の中心となつたのは古い歴史を持つためであろう。
五穀豊穣・海上安全・豊漁祈願・厄難除けの御神徳がつとに名高く、関東・東北遠近から集まる多くの善男善女で賑わう夏の祗園例大祭は、今でも『にんにく祭』と呼ばれて有名だ。。
祭の時には、無病息災・家内安全を神前で祈祷した疫病除けに御神徳がある『ニンニクお守り(御霊韮)」が、神社で頒布授けられる。
お参りした人達は、神社から、お神札と「御霊韮」をお受けして家に持ち帰り、
ニンニクが袋に入ったままの御守りを軒端や天井に吊すなどして厄除けとしている。
「ニンニク御守り」は、御祭神「素戔鳴尊」が朝鮮からお持ち帰りになったニンニクに厄除けの力があつたとの伝えにちなみ、疫病の流行期に除疫を願って神社から迎えたニンニクを門戸に吊すという独特の習俗を生んだのである。
話は、江戸時代の中期に下って、天明の大飢饉が起き、疫病が蔓延した。その時、地域の領主、堀田対馬守は、この艱難を「一ノ矢八坂神社」のニンニクを用いて多くの人々を救ったという逸話が伝えられている。
一ノ矢天王のニンニク祭りはその遺風の伝承されたものだと考えられその伝説は連綿と続いている。
以後「一ノ矢八坂神社」の「祇園祭」は、病厄難を祓い清める「ニンニクのお守り」を授かるその御利益の信仰により「ニンニク祭り」と呼ばれるようになり、今日に至っている。